そこにあるのはもう動かない肢体だけだった。ああ、また駄目だった。こつこつと靴音を響かせてそのものに近づく。こつ、こつ、こつ、ぴちゃ、ぴちゃ。近づくにつれ、その容貌が判る。きっちり息の根を止めようとしたのだろう、辺り一帯も含めて、それはそれは凄惨な有様だった。すぐ傍にしゃがみこんでぼーっとそれを見つめる。どうせ時を戻すのだ、多少遅れたって問題ないだろう。これは、腕だったものだろうか。顔に掛った乱れた髪を直す。綺麗だった顔も傷だらけだ。といってもこれでもこの部位の負った傷は少ない方なのだけれど。

ぱちん、と。そう動く必要もない、神に祈る必要もない、その一つの動作で、彼の身体は元通り。命も元通りこれの中に吹き込まれて、寸分違わずイーノックの出来上がりだ。この沢山の傷も、まるでなかったもののように消える。この、戦いのしるしが。
彼はこの戦い、勝つことは出来なかった。……だけど、消してしまっていいのか、と私のなかのなにかが問う。私が神に逆らえることなどないと分かっていながら。私が彼の望みに逆らうことなどできないと分かっていながら。
彼はこの先、沢山の戦いを体験するだろう。何度も何度も、血の海に沈み息を止めて命を失うだろう。私はこの光景をあと何度見ればいいのだろうか。……いつか、彼が救われる時が来るのだろうか。

ぱちん、指を鳴らす。時間が巻き戻る、彼は生き返る。答えは出ない。結局、私達はいつでも神の掌の上だ。彼はまた戦うだろう。勝つまで戦い続けるだろう。何度も死を繰り返しながら進み続けるのだ。人間の為に、人間を愛した堕天使を打ち倒しに。それがどれだけ矛盾を孕んだものであるかも知らずに。

――願わくば、彼の未来が明るいものでありますよう。
神には祈らない、私自身に祈ろう。彼を救うため、私はここにいる。

「イーノック、そんな装備で大丈夫か?」



メビウス / 110102