眼下に広がる草原に向けて。 「Summer kills spring.」 (夏は春を殺すのです) 紫陽花の葉に水滴が付いている。先程降った通り雨の仕業だろう。空は何もなかったかのようにすっかり晴れわたっている。湿気た空気と辺りに点々と残った水溜りだけが雨の存在を仄めかす。草原は静寂に満ちている。例えるなら嵐の前の静けさともいうか。 若干の不安と期待を含んだ、始まりを予感させる桃色のワンピース。その生地に縁取られた清純を思わせる純白のレースが、六月の湿気た空気にひらひら舞い踊る。今の季節にはいささか暑いだろうに、彼女はそれを汗一つかかず爽やかに着こなしている。相変わらず、だ。 一陣の風が吹く。辺りの草花がそよそよと小さく揺れる。 「覚えていますか?」 薄く色の付いた唇が動く。 「私たちが出会ったとき、ここはまだ短く若い新芽たちのの王国でした。緑の仄かな香り漂う萌黄色の世界。でも今はもう、彼らはすくすくと立派に成長しています。激しい通り雨にも負けずに、すくすく、すくすく」 僕は何も言わずに只々彼女の言葉に耳を傾ける。 「もう彼らに私はいりません。もう私は彼らに恵みの水を与えることも温かい光を注ぐこともする必要はありません。私は……必要ありません」 そういって彼女はくるりと笑顔でこちらを振り向いた。僕は予定調和のように彼女のその細い首にゆっくりと手をかけた。彼女の目の淵に見えた雫は見なかったことにした。 ゆっくり深緑が新緑を飲み込んでゆく。空はますます突き抜けるように蒼く。太陽はじりじりと大地を焼き尽くすように照らす。 そして―― 蝉が煩く鳴いている。むっとする湿気が街を覆っている。アスファルトに太陽が照りつける。どこかで風鈴の音がする。子供たちの無邪気な声が街中を駆け回る。手に持つのはビニールバック、中に入ったスクール水着。ビニールが光を反射してきらきら輝く。茹だる様な暑さに人々は汗を流しながら、それでも懸命にこの季節を生きていくだろう。己が使命を全うした彼女のように。あの紫陽花の葉の水滴はもう蒸発してしまったようだ。きっとこの空気の湿気に潜んで、いつかまた雨となってこの地に降ってくるだろう。全ては循環するのだ。水も、人も、季節も。 もう桃色のワンピースは見当たらない。 季節は、夏。 |
夏は春を殺す / 090321